いいたて雪っ娘アンバサダー|廣本直樹

【プロフィール】
野菜の語り部研究所・代表

東京都八王子市出身。東京農業大学卒業後、青果市場や農業流通ベンチャー企業、レストラン運営企業において、様々な立場から野菜や果物に携わる。
その後、レストランサービスを経験する中でパフォーマー「野菜の語り部」としての世界を確立。

2014年5月、野菜の語り部研究所を設立し、フリーの「語り部」として全国で活動開始。全国の農産物の作り手たちを訪ね歩き、その地域の農産物を「語り」で表現するライブステージを全国の食の現場で展開中。

また、その傍らで毎週日曜日の夜限定で、「日曜野菜深夜食堂やさいのじかんat:新宿ゴールデン街」を営業。野菜の声を知るからこそ生まれる様々なメニューが好評を博している。

野菜の語り部研究所:http://yasainokataribe.jp/


「このかぼちゃは、100年語り継がなくてはならない」

日本中の野菜を探究する「野菜の語り部」ひろもとが、いいたて雪っ娘に着目したのは、その「ストーリー」。多かれ少なかれ、野菜には生まれ持ったストーリーというものが存在する。

福島県相馬郡飯舘村。

「までいの村」として、地域に暮らす住民のハートと情熱がとりわけ光っていて、地域経済問題の解決方法も、ユニークな取り組み事例もたくさんあった。また「日本でいちばん美しい村連合」にも加盟した、素晴らしい景観と歴史とそこに暮らす人々のことも特に興味が引かれるものが多かった。

2011年3月11日の東日本大震災での直接被害はほぼ軽微なものであったが、翌日の放射能事故での悲劇。飯舘村には人は住めなくなり、高放射線量の畑では作物の生産ができないことになった。
ストーリーには主役がいる。その名は渡邊とみ子さん。

あきらめずに避難先の福島市で「いいたて雪っ娘」の生産を開始した渡邊とみ子さんの「とにかくいいたて雪っ娘は作り続けなければいけない」という強い意志があり、さらに全国各地に避難した仲間でこのかぼちゃを生産することを選んだ。

この事実を知った時、語り部ひろもとは「壮絶なストーリーをもった、旅するかぼちゃ」という切り口で、このかぼちゃをもっと世に知ってもらえればと考えたのだった。

ただ、語り部ひろもとは「おいしい」という条件を抜きにして生産者への思い入れという理由だけで推すことは、プロとしてファンに許されない。

「実際に現地に飛び込み、できるだけ現場の中心地に身を置いて体感しよう。それで決めよう」という一心で、福島市の渡邊とみ子さん宅への訪問を決めた。その時のやりとりがこうだ。

「伺えますか」
「いま、忙しいんです」
「どんなことで忙しいのでしょうか」
「かぼちゃの加工をしないと間に合わない」
「お邪魔にならなければ、なんでもやります」

という、今考えると本当に失礼な、ほぼ一方的な約束を取り付け、現地に向かったのだった。

とみ子さんと一緒に、朝から夜の19時近くまで、かぼちゃを黙々とペーストにする作業をしながら、思わず笑ってしまった。こんな面白いかぼちゃと、こんな場所で出会えるなんて!

作業中、手を止めずに、とみ子さんには失礼ながら容赦なくストレートな疑問を投げかける。

「いいたて雪っ娘、近い将来にまた飯舘村で作ることはできるんでしょうか?」

とみ子さんは淡々と答える。

「土壌がそれを許容する線量までになるには、50年とか100年とか」

言葉に詰まる。それはあまりにも厳しい事実。

「でもね、あきらめずに、このかぼちゃを作り続けるの」

その想いに共感した方々が、岩手の遠野でいいたて雪っ娘の「代理栽培」をやっているという。

普通、地域特産品の野菜は「その地域で生まれて、その地域で作る」というのがお約束。
飯舘村は、それができない。ならば、全国に栽培を広めて、作ってもらって、楽しんでもらうという、逆の発想。面白い。

「旅するかぼちゃ」

つい、帰りの車内でつぶやいた。そして同時に、この壮絶なストーリーを背負ってしまった、不思議なかぼちゃのことが心から離れなくなった。

最初は、まあ興味本位。このかぼちゃがもしあまりおいしくなかったら。あまりドキドキしなかったら、ここまでハートは動かなかっただろう。
そして、こんな気持ちが生まれた。

「このかぼちゃは、100年語り継がなくてはならない」

渡邊とみ子さんが、あきらめずにまいたかぼちゃの種。
語り部ひろもとは、発信し続けることで、世界中の方々のハートの中に、このかぼちゃの面白さの「種」をまこうと決めました。

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